ゲノム解読が基礎科学に与えたインパクト

 ゲノム解読と同時進行で行われる EST (Expressed Sequence Tag) 解読によって、いわゆる-omics的なアプローチが可能となった。その恩恵はDNAレベルで見るとポジショナルクローニングの飛躍的速度向上、転写レベルで見ると DNA-chip テクノロジー、翻訳レベルでは質量分析を挙げることができる。以上の3点についてそのインパクトを簡潔に述べる。

DNAレベルでの恩恵 - Genomics

 制限酵素処理の結果生じるゲノム上 insertion / deletion を検出する Amplified Fragments Length Polymorphism (AFLP) などと比較して、ゲノム解読が基盤となるSingle nucleotide polymorphism (SNP) を利用した多型検出法は、カバーできるマーカー密度のオーダーが一桁高いため、より詳細なポジショナルクローニングが可能になり、高速度での原因遺伝子決定ができるようになってきている。
 疾病の原因遺伝子の特定などは、疾病の作用機序解明のための第一歩でありながら、これまでは非常に時間と労力のかかる作業過程であった。その大きなボトルネックが改善されたのはゲノム解読の功労の重要な要素である。
 また、DNAシークエンサーの技術革新に伴い、Emulsion PCR とよばれる方法を利用することで、25Mb / 4hour という桁違いの性能を持つシークエンサーが既に販売されている。現在のスペックでは、一度に読める塩基が100程度となっているため、長い繰り返し配列を含むゲノムを持つ高等真核生物のゲノム配列解読は難しいが、一度の読める距離が改善することによって、ゲノムそのものをひと月もかけずに読めるようになるのはそう遠い日のことではない。
 ゲノム解読がなされていることと、次世代のシークエンサー技術をあわせて考えると、これまでのポジショナルクローニングという研究上の大きなボトルネックが数年から数ヶ月に短縮されるだろう。

mRNA レベルでの恩恵 - Transcriptomics

 DNA-chip テクノロジーの開発により、任意の現象に関与している遺伝子すべてを一度に把握できるようになってきた。転写因子を介した遺伝子発現ネットワークの解析には非常に強力なツールであり、特に転写が現象の基盤であるような概日時計のネットワーク解析事例によってその強力さが浮き彫りになっている。
 強調しておきたいのが、これまでは Differential display などといった非常に労力が必要だった複数のサンプル間での遺伝子発現の差の検出が簡便になったという点である。時系列での遺伝子発現プロファイルの比較をする上で、個々の実験が簡便になった結果、実験数を増やすことができるようになり、解析可能な対象のサイズが拡大した。
 現状では DNA-chip の定量性の精度はそれほど高くない。しかし、前項で紹介した Genome Sequencer 20 のような次世代型のシークエンサーを用いることで、発現している mRNA すべてを読み、カウントすることができるようになる。文字通りの絶対定量が遺伝子発現に関して可能になりつつある。
 図はAffymetrix 社製 Genechip。

Protein レベルでの恩恵 - Proteomics

 質量分析は任意のタンパク質について、その正体を同定する技術である。消化酵素処理したタンパク質から生じるペプチド断片の質量を測定し、全ゲノムにコードされているタンパク質のデータベースに対して全検索をかけることによって、サンプルのタンパク質を決定する。そのため、質量分析を行う上でゲノム解読は必須であった。
 この技術は DNA-Chip テクノロジーとは相補的な関係になっており、転写されているmRNAの網羅的データとProteomicsのデータを相互に参照することで、現象に対するさらなる理解が深まる。特にアイソトープを用いたパルスラベリングによる定量的なタンパク質の発現解析は、今後さらなる発展が期待されるシステムバイオロジーの領域において、基盤となる研究手法になると考えられる。
 タンパク質の機能解析を行う上でのブレイクスルーとなるのは、結合相手となる分子(主にタンパク質)の同定である。目的のタンパク質を精製し、挙動を共にするタンパク質を同定する際に質量分析は強力なツールとなる。古典的なタンパク質の配列決定法よりも高速に、質量分析は実行可能である。とくにタンパク質複合体を精製し、その中に含まれる因子の同定において、質量分析を用いたプロテオミクスの威力が特に顕著である。

参考文献

DNA レベルでの恩恵
  • 村松正實監修 ヒトの分子遺伝学 メディカル・サイエンス・インターナショナル第3版 (2005)
  • Ronaghi, M et al. DNA Sequencing: A Sequencing Method Based on Real-Time Pyrophosphate. Science 281, 363-365 (1998)
  • Tawfik, DS and Griffiths, AD. Man-made cell-like compartments for molecular evolution. Nature Biotechnology 16, 652-656 (1998)
  • Margulies, M et al. Genome sequencing in microfabricated high-density picolitre reactors. Nature 437, 376-380 (2005)
RNA レベルでの恩恵
  • Ueda, HR et al. System-level identification of transcriptional circuits underlying mammalian circadian clocks. Nature Genetics 37, 187-192 (2005)
  • Ueda, HR et al. Molecular-timetable method for detection of body time and rhythm disorders from single-time-point genome-wide expression profiles. PNAS 101, 11227-112232 (2004)
Protein レベルでの恩恵
  • Tyers, M and Mann, M. From genomics to proteomics. Nature 422, 193-197 (2003)
  • Aebersold, R and Mann, M. Mass spectrometry-based proteomics. Nature 422 198-207 (2003)